月曜日の夕方から翌日の明け方にかけて、はげしい雨がふりました。風も強く、北側の窓に雨粒がぶつかり、風の唸り声が聞こえていました。
写真は、雨がやんだ早朝の空です。ハルとぬかるんだ道を歩きながら、カラカラに黄色く干上がっていた雑草のなぎたおされた野原や、山がから霞がのぼっている風景をながめました。草木が生き返っていました。すこし湿った冷たい空気のおいしいこと!
しかし喜んでばかりもいられませんでした。
畑では、トマトが実割れをはじめていました。
くやしいことに、まだ青い実にまで亀裂がはいっています。
雨がふらなくて、ふらなくて、毎日たっぷり水やりをして、トマトの実が日に日にふくらんでくるのを見つめていました。実がりっぱにふくらんで、さぁ、これからは暑い太陽に照らされて、甘くなるんだぞ、と、期待していたら、このありさまです。
もちろん、すべてのトマトが、実割れしたわけではありません。一部実割れしていても、熟すまでそのままにしていても良い実もあります。
だけど、こういう時、わたしは、自分が専業農家ではなくてよかったと、しみじみ思うのです。
宮澤賢治の『グスコーブドリの伝記』では、冷害による飢饉のようすが描かれています。作物が実らなければ、人々はすぐにその年の秋から食べることができなくなります。精神を病んでしまう人々。貧しさから犯罪もはびこるようになります。
我が家のトマトが、ぜんぶ病気でだめになっても、わたしたち家族は、それでもう明日からの食料にこまるわけではありません。トマトもキュウリも洋なしも、趣味の園芸です。
ここに生活がかかっているとしたら・・・・と考えると、ぞっとします。
天候・気候だのみの農業とは、なんて過酷な仕事なのだろうと思います。農業を生業にされている人、おいしい野菜を育てられる人を、わたしは尊敬してしまいます。
しかも、食料は毎日の生活にとって、かかせない、大切なもの。農林業、畜産、漁業は、人間にとってもっとも大切な産業ではないでしょうか。
それでは、安定した食糧供給をめざし、たとえば、気温や光、ミツバチまで人工的に管理された屋内で水栽培されるトマト栽培は、農業の理想的な形なのでしょうか。
わたしは、食べ物を収穫・収獲する行為が、人工的な技術に近づきすぎては、危険だと思うのです。また、野菜がどうやって育ってきたのか、誰が育ててきたのか、まったく考えずに、見栄えがよいものを安く買うことばかり考えるような、消費者社会は、このまま地球をしゃぶりつくすと、怖くなります。食べ物を得ることは、自然と共存することだと、わたしたちはもっと自覚しなければなりません。
街のあちこちに、菜園地帯があり、住人ひとりひとりが、納税義務だけではなく、本業の合間に、農作業に関われる(関わる義務がある)、そういう社会にシステムが変わっていったら良いのに。だから、TPPなど、もってのほか、と思います。